つくりたいものとおもしろいと思うもの
読んでみたり観てみたりして、おもしろい、と思うものと、
自身でつくろうと思うものはまったく違う。
おそらく、おもしろいと思うものの数や種類に限度はない。
こどもの頃から今に到るまでにたくさんのものをおもしろいと感じてきたが、
完全に枯渇する様子がまったくない。
むしろおもしろいと感じるものの幅はどんどん広く、そしてその深度は深まるばかり。
かつては興味の「き」の字もなかった
クラシックやジャズや様々な学問の本に手をつけたのは、つまりはそういうことだ。
漫画やアニメに関して言えば、
かつてはバトルものしか読んだり観たりしていなかった気がするが、
今は少女向け大人向けを問わずラブコメを読んだり、様々な作家の短編集を好むようになった。
昔はいずれも興味無かった。
山ほど読んでいたライトノベルもいまや鳴りを潜め、
今は新書・詩集・哲学書・洋書などを多く読んでいる。
今は、
難しいか簡単かは問題にならず、
読むことで何を得られそうか、何を得たいから読むか、が問題になっている。
その一方で、
私がつくりたいと思うものは、
決して、
誰かに何かを与えるためにつくられたものではない。
そんな傲慢にはなりたくないし、なれない。
むしろ、
自分のためにつくったものが誰かのためになればいい、と考えている。
というか、
私はそういうものしかつくりたくない。
あくまでも、
何かを自分のためにつくって、それを勝手に人が触れて何かを思ったり思わなかったり、する。
最初から、
どこぞの誰かのために創作したくない。
よっぽどの事情や私情がない限りは。
よっぽどの事情があった場合はそのときにならないとわからないのでともかくとして、
よっぽどの私情があった場合は、
「誰かを想ってつくる」ことそれ自体が自分のためになるので、
「自分のため」と「誰かのため」が同列になる。
だから先に挙げたふたつの場合は仕方がないことだと考える。
私がつくりたいものを具体的に述べるとなると、
とある二人の作家の存在が前提になる。
佐藤大輔氏と秋山瑞人氏だ。
前者は故人で、後者は……十年以上新刊を出していないたぶんまだご存命の作家だ。
私は。
この両名に間違っても憧れていない。決して、世界がひっくり返ってもそれを肯定したくない。
ただひたすらに、
この両名の文章にひどく飢えているだけだ。
その状態はおそらく高校生の頃からのもので、
似た文章でもいいからと思って探し始めたものの、
その妥協はまったくの無意味になって終わった。
どこかにはきっとあるのだろうが、
どこにあるのかをさがす手間よりも、
自分でつくる手間を愛した。
いまやその愛は他に替えの効かない原動力…、になっている。
それに、
あるのだろうが本当にあるかどうかもわからないものをさがすよりも、ゼッタイに自分でつくった方が楽しいに決まっている。止まって口を開けて呆けているよりも、徒労に終わろうがなんだろうが動いている方が心身両面にとって良いことのはずだ。こんなことはこどもでもわかるはずだ。
私がつくるものは、
今の私のためのものでもあるが、半分はかつての自分のために在る。
何度目かになるが、
私は、
自分のために多くのものをつくりたい。そういうものしかつくりたくない。
誰かのためにつくる暇があったら自分のためになるものをつくる準備をしていたい。そのための知識や経験を得るために読書したり動いていたりしたい。
私は、
私がわたしのためにつくったものが面白くなるかどうかの心配をあまりしていない。
佐藤大輔氏と秋山瑞人氏を追い求めてつくったものがつまらなくなるはずがない。
そうなりようがない。
信じているというか、
上に放ったものが落ちてくるのと同じようなことだと感じている。
問題は、
私が正しく書けるかどうかだけだ。
まあ、それもどうせ大丈夫だろう。
それに、今は書くことが苦しくて楽しくて仕方がないから、
なんでもいい。

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