未読の本の山から、いつ買ったのか思い出せない図録を取り出した。
ビョールン・ランドストローム著の『世界の帆船』という本だ。
神保町で、1000円の大特価で買えてしまった、本。
本のふわふわとした手触りと、装丁に描かれた精緻な帆船の絵に惹かれ、
値段も確かめずに買ってしまった、本。
会計の際に値段を聞いて思わず訊き返した、本。
私には船に対する興味がほとんどない。皆無と言っても言い分しかない。
富戸港の漁船や、青森と北海道を繋ぐ船に、その場限りの興味を持ったことはある。
しかし、これを機に、と思って買っていた。
しばらくの間、本の塔の一部にしてしまっていたわけだが。
しばらくの間───というのは具体的に一年程度だ。
ひとつの塔を解体したのは、机上の本をすべて読み終えてしまったからだ。
私には積読書が常にある。
未開拓の領域を僅かでも既知にしたい気分だった。最近、勉強欲が盛んだ。
人の歴史に船が伴うようになったのがいつ頃からなのかはしられていないらしい。風を原動力にして船を動かすという発想が出てきたのがいつ頃なのかも、当然。
では、『ふね』という概念はどのようにして発生したのかもわからないというわけだ。
ここで思ふ。
概念が生まれ、具象化することはありえず、
モノが生まれ、概念が発生するのだ、と。
思想から行動は生まれない。
行動から思想が生まれ、理由・根拠が後付けされる。
結果が行動を押すことはない。
行動が結果を弾き出し、弾き出された結果がさらなる行動を起こす。
書いてみれば当たり前のことだ。
しかし往々にして当たり前のことはけして当たり前ではない。
『ふね』という概念は、
荷を簡単に、そして楽に運びたい。という欲望にちかい思考を元に生まれたものだと推察───
というよりも望む。強く望む。
エジプトといえば文化・社会の発生地として有名だ。
社会あるところに労働があり、
労働あるところに人があり、
人あるところに欲望・思考がある。
はるかむかしの人の「楽したい」という考えから叡智が詰まった「ふね」というものが生まれ、
育まれ、人類繁栄に大いに役に立っていると考えると、肩が軽くなったような気がする。
ちなみに、帆をかけた船の最古の絵はエジプトで発見されたらしい。
時代と場所がとんで、17世紀のイギリス。
船名───ソヴェリン・オブ・ザ・シーズ。かっこいい名前だ。
それはチャールス一世の強権と意思によってつくられた。当然、巨艦は金に装飾されていた。海戦において、オランダ人はこの船に決して近づこうとしなかったようだ。100門の大砲を備えた巨艦に誰が近づきたいと思うのか。そしてこの船は、オランダ人に「黄金の悪魔」と呼ばれたらしい。
しかし、いかにもなその異名をもつ巨艦は、最後には炎上した。たった一本のロウソクが転倒したために発生した火によって、八ケタにも及ぶ建造費を要した国王の巨艦は灰になった。
おわり方すらもいかにもである。
このような船に関する小説をいつか書く。
しっかりと設定などをまとめて。
おわり方が肝になりそうな気がする。
あっけなく書くか、繊細に大仰に長文で書くかは、そのときの気分もしくはその直近に見たもの次第というところだろう。今は長ったらしく繊細に描写したい気分だ。
栄枯盛衰。諸行無常。盛者必衰。
そういうものを派手派手しく書きたい。
本に掲載されている帆船には魅かれた。
しかしやはりどうしても今の豪華客船などにはかけらも魅かれない。
漁船には少し魅かれる。風景を彩る存在として。
ヨットには魅かれない。味気ない。
この差はなんだろうか。
機能美と煩わしさのバランスが重要な気がする。
箱にあらゆるものをきれいにきっちりと収めたものよりも、
開放的でやや煩雑な印象を受けがちだが必要なものを必要な場所に収めたものの方が、
私はすきなのかもしれない。
余地を残したというか、
完全に寄り切らないものというか、
多面性を感じるものが、私は好きらしい。
おそらくは。
悪く言えば。どっちつかず。蝙蝠的。
良く言えば。……。なんだろうか。
いつか、帆船を見てみたい。もちろん、海上に浮かぶそれを。
いや、そもそもあるのだろうか。現役の帆船。
少ないがあるらしい。
今年はやることが多い。来年、見に行こう。

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