たくさん書きます。たくさん動きます。たくさん考えます。


ラブコメ実存否定論を提唱す。


ラブコメは大好きだ。

キュンキュンする。

学童保育に通っていた頃、コロコロコミックも読んでいたが、ちゃおも読んでいた。

中学生になってからはジャンプマガジンサンデーガンガンの他にマーガレットを読んでいた。

 

ちゃおは自分以外の生徒が帰ってから、

マーガレットは母がいないときにこっそり読んでいた。

 

なぜ、いつから興味をもつようになったのかはまったく覚えていない。

ほんとうに、欠片も覚えていない。

心当たりすらない。

今回、改めて思い返してみたが、こっそりと読んでいたのを覚えているだけで、

なぜ、

でんじゃらすじーさんやベイブレードや爆丸やペンギンの問題が好きだった小学生が、

ちゃおやマーガレットに手を伸ばしたのか、

まったくすこしも思い出せなかった。

 

そしていまや

白泉社さんの「楽園」は愛読しているし、

気に入ったものは全部揃えているし、

「君に届け」は自前のものを揃えたし、

「うるわしの宵の月」は連載当初から追っているし、

と、いう状況である。

 

「楽園」が完全に女性向けかというとそれには強い否定を突きつけるが、

「ラブコメ」という枠には入るものが多いと思うのでここに挙げた。

 

私が思うに、感じるに、

愛や好意というのはすばらしいものだ。

事物に対するそれではなく、もちろん人から人に対するそれについての感想だ。

異性から異性に対するそれに限らず、同性から同性に対するそれについても、

当然、

同じことが言える。

 

それはたしかに普通以上の力を引き出す元に成り得る。

 

その人のためならばと恐怖を忘れてしまうこともできるし、

限界を超えて進むこともできる。

ときには、

とてつもなく疲れていたはずなのに相手の笑顔を見るだけで心身ともに元気になることもある。

 

以前、父が話してくれた。

「立派に育ってくれてよかった。誇りだ」

と、まっすぐに話してくれた。

 

不思議と、

これが愛なのだと思った。

言葉には言い表し難い、この感情こそが愛なのだと。

傲慢にも思った。

ただ、このときに、

私は父にこのひとことを言わせるために、

どれだけの金を使わせてしまったのか、

どれだけの苦労をさせてしまったのか、

と思った。

 

今回の文章はその時の思考に地続きになるものだ。

 

なにをするにしても必ず代償が伴う。

愛や好意という何にも代え難いものであれば、

それを得るのにも、維持し続けるのにも、多大な心理的負荷と金銭的負荷がかかる。

べつに私はそのことに不満を持ってはいない。

むしろ当然だと思う。

恋人のあんな素敵な表情を見られるのなら、元気な姿を見せてくれるのなら、距離も時間も金も問題にならない。疲労を感じることがあっても、あんなになんでも話しても、逆に話さなくてもここちよく過ごせる相手をみすみす手放そうとは思えない。そんな阿呆ではない。

 

そんなふうに考えつつも「ラブコメ」が好きな私は、

「ラブコメ」という概念は現実には絶対に存在しないと考えざるをえない。

 

「ラブ&コメディ」の略称が「ラブコメ」だ。

「コメディ」の要素などない。

遊びや恋愛の序盤ではある。それは認めよう。

しかし最後には削れ切って残らない。

 

愛というのは苦しく哀しく厳しく、そして、人によってはほんのすこしだけあまい。

そんなものだと予感している。

あまさをのこす手段は、

膨大な心血を注いで可能な限り金を稼ぎ、ほどよい年齢で死ねるくらいに心身ともに健康でいて、公や他社に対する奉仕の精神を忘れず、自身の犠牲を厭わず、愛する人の自分に対する犠牲が明らかに自分のそれと比較にならないほどに少なくても嫌な顔をしない忍耐力を持つこと、

などだ。

おそらくはまだまだあるのだろうが、

いま思いつくのはこれらだ。

おぞましい。

 

愛とはおぞましさを含む一面をもつ。

輝かしい一面があるのも間違いないが、

コメディ的一面は無い。それは断言できる。

 

よって私は、ラブコメ実存否定論をここに提唱する。

 


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